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自分の納得出来る生き方、在り方を求めて思索し続け、省察と観察を続ける日々の雑感、随想を綴ります。
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粟谷塾の夜話 夏休みを彩ってくれた仲間達」に書いた、残る2匹の「新しい仲間」を紹介します。
1匹はこちらです。


以前「若蜘蛛一匹、孤独な練習」で紹介した時より大分大きくなったようです。
立派に成長し、今や皆に認められる存在になりました^^
2匹紹介した内のどっちだか分かりませんが…^^;

そして、もう1匹はこちらです。


正面から見ると、こんな感じです。


差別に負けず、健気に生きています。



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14日(水)、先月末以来久々に粟谷塾の授業を休みにし、生徒の来ない日を過ごしました。
“教科書供給会社”見学の下見に行ってくる為です。
その見学を企画したのは、生徒が、一般の塾が使っている、所謂“塾教材”の出来方に興味を持ち、それを受けて、私が、その機会に一般の塾の指導と粟谷塾の指導の違いを皆に一層良く理解してもらおう、と考えたからでした。

因みに、“教科書供給会社”とは、各都道府県に在る会社で、教科書発行業者と教科書取扱書店を繋ぐ役割を果たしている会社です。―※参考:発行10.教科書供給の仕組み:文部科学省
そして、“教科書供給会社”では、所謂“塾教材”も扱っています。
各都道府県の“教科書供給会社”は、東京教科書供給株式会社のウェブサイトの左欄、「教科書」中の「お問合せMAP」のページや「LINK」中の「供給会社」のページに掲載されています。

14日(水)、初め神奈川県教科書販売株式会社に行きましたが、一般への閲覧はしていない、と言われた為、かつて通っていた東京都第一教科書供給株式会社に行く事にしました。

何年か振りの東京でした。
京急電車が多摩川を渡り東京都に入ると、何だか“帰ってきた”と云うような気分になりました。
かつて新幹線が東京駅に近付く時に感じていたのと同じ気分でした。
色んな事が有った東京でした。
密度の濃い気分でした。
それは、過ぎ去った事も残してきた事も全て飲み込んだような独特の気分です。
そしてまた、裏を返せば、今の私の生活の平和を感じさせる気分でもありました。

新宿で割と遅くまで過ごしました。
ふと、かつての、0時や1時頃の終電で帰るつもりの気分で居る事に気付き、ちょっと慌てました^^;
今は三浦半島に帰らなければならないのだ、と気付きました。

京急長沢駅を降り、改札を出て、帰りの道を歩くと、また“帰ってきた”と云う気分になりました。
今、私は、ここに住み、ここで家塾を開き、ここに日々生徒や他の人達を招き、特に問題が起きなければずっとここに住み続けるつもりで居ます。
確かに、“帰ってきた”訳です。

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ここに引っ越してきて以来、もうちょっと正確に言うと今月に入ってから、オーディオのスピーカーで音楽を聴いています。
製品名は、”TANNOY SYSTEM 8”です。
確か、上京して間も無い頃、約20年前に買ったスピーカーです。
その後、一部の機器が故障し、修理の事を考える時間も無かった為、多分、ここ10年位は、アンプや他の機器と共に、押入れに眠っていました。
勿論、いつかまた聴こう、と思っていたからこそずっと持ち歩いてきた訳ですが、具体的にいつになるか、は考えも付きませんでした。
それが、粟谷塾を支えてくれている仲間が、授業でDVDを観られるように、と機器を寄贈してくれた為、突然に今また、このスピーカーで音楽を聴ける時機が到来しました。
今、ちょっと感激しながら聴いています。

それにしても、かつてのオーディオブームは意外に短かったようで、30代以下の若い人達の中には、こう云うスピーカー自体を見た事が無い、と云う人も居るようです。
私が10代の後半だったオーディオブーム全盛の頃には、カセットテープにも、ノーマル、ハイポジ、メタル、と音質と値段の違う種類が有り、また、CDが出始めた頃で、そんなにオーディオに詳しくない私の周りでも「CDとメタルテープはどちらが音質が良いか?」と云った話題も出る等していました。
その後、音質よりも便利さが追求されるようになって、オーディオブームは急速に萎んでしまったようです。
あのオーディオブームもバブル時代ならではの文化の一つだったのでしょうか?

私より年配の世代の方々の中には、レコードを大切になさっている方々が居られるのも知っています。
何だか、音楽のブームにも、その時々の世界経済の有様が如実に表れているような気がします。
そう思うと、仲間が塾に寄贈してくれた機器で最初に観たDVDが「テルマエ・ロマエ」だったのは象徴的です^^

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今日は、昨夜からの雨が午前中に雪に変わり、あっと言う間に積もりました。
ここで粟谷塾を開いて以来、雪が積もるのは初めてだ、と思います。

それはさておき、昨日の早朝には、近所の海岸で「正月の松飾りやお札など縁起ものを焼いて新しい年の家内安全と無病息災を祈る『おんべ焼き』の伝統行事」が行なわれたようです。
一緒に行こう、と生徒に誘われもしたのですが、約束出来ず、案の定、一昨日の夜から昨日の夕方頃まで、仕事をしながら気が付いたら寝ていて、寝ちゃ起き、寝ちゃ起きの繰り返しで、とても行ける状態ではありませんでした。
そんな風に疲れが出たのは、一昨昨日(さきおととい)の金曜日に懸案が二つ同時に目出度い方向に一段落して、知らず知らず気が緩んでいたからだろう、と思います。
また、冬休み中に溜めた疲れも出ているだろう、と思います。
考えてみると、この頃は生徒達の学校の長期休暇(つまり、生徒達が毎日午後早々から来塾する時期)が終わる度に熱を出したりインフルエンザに罹ったりしていましたが、今回の冬休みについては、この程度で済みそうです。
生徒の御宅から柚子を頂き、勧められて遣った柚子湯の効き目は大きかった、と思います。
入っている最中から体が温まり、湯冷めもしないのが良く分かりました。
また、その他にも、皆さんから栄養の有る物(しかも美味しかったです^^)を沢山頂きました。
本当に助かりました。

話を「おんべ焼き」に戻すと、今回は見に行けませんでしたが、来年か再来年には是非行ってみたい、と思っています。
福岡、広島で育って、上京した私にとって、首都圏(一都三県)で最も不思議な事の一つが、祭りです。
広島から上京する頃やその少し前の20数年前、私は、広島や福岡よりも都市化、近代化が進んでいるであろう首都圏では、祭りなどと云う因襲的な物はほぼ死滅しているだろう、と思っていました。
と言うのも、広島でも福岡でも、地元の町内に盛り上がる伝統的な祭りが有る、と云うような事は先ず無く(多分)、祭りと言えば、それこそ日本を代表するような大規模な祭りしか無かったからです。
しかも、福岡の二大祭り、どんたく山笠は私の家からは遠い中心街で行なわれる祭りで私とは接点が無く、広島最大の祭りに至っては、「フラワーフェスティバル」と云うカタカナ名の、伝統など有る筈も無い今時の祭りでした。
  • 因みに、ひろしまフラワーフェスティバル博多どんたくは、ゴールデンウィーク中の全国最大動員数(100万人以上)を競う規模の祭りで、どちらも(多分特にフラワーフェスティバルは)、素人による出し物と芸能人によるショーが沢山行なわれる”市民大文化祭”的な祭りです。
そんな訳で、私としては、広島や福岡では、伝統的な祭りは廃れつつある滅びゆく前時代的な因襲の残りであり、況して近代都市文明化が進んでいる筈の首都圏に(観光目的の三社祭等を除いて)在る筈が無い、と思っていました。
ところが、いざ上京してみると、町内規模の伝統的な祭りの多い事!
東京の渋谷のど真ん中の町内会が倉庫に御輿を持っているのを見た時には、本当に驚きました。
世界から近未来都市のように言われている東京、日本首都圏と、町内規模の伝統的な祭りが、どう両立し得ているのか、私には不思議で堪りません。

こう云う見方には、私の希望も混じっている、と思います。
私は、伝統的な祭りに、地縁、血縁と云った自分の意志によらずに結び付くように強いられた人間関係に基づく狭量な因襲を感じるのですが、そう云う物を嫌ってきました。
そう云う物に縛られずに各人の意志によって結ばれる人間関係を望んできました。
不可避的にそう云う祭りが在って参加しなければならない、と云う状況にもし自分が置かれたとすると、と考えると、とてもそんな場には居たくない、と思ってきました。
ですから、福岡や広島の都市化の方向性、と私が感じた状況は、私にとって非常に望ましく、居心地が良く、首都圏でそれがもっと進んでいるのであれば、願ったり叶ったりでした。
言い方を換えれば、集団を主、個人を従として、個人が集団に迎合して所属する関係が嫌だ、と云う言い方も出来ます。
集団の在り方と個人の在り方が対立する時、変わるべく率先するのは、可能な限り先ず集団だ、と云う関係です。
ですから、私は、例えば、粟谷塾に入塾する生徒には、粟谷塾の色に染まるのではなく、粟谷塾に自分の色を加えてほしい、と思います。
私は、そう云う塾の在り方を追求してきました。
粟谷塾で認められないのは、自分の色を顧みる事無く他人の色に染まろうとする事だけです。

ただ、生徒達の話を聞いていると、イベントによっては、生徒の親とその友達仲間が実質的な運営母体になって行なわれているイベントも在るようです。
今までに私が聞いた限りで言うと、横須賀は、地元出身の人達がそのまま地元に留まって結婚し、家庭を持っている事が多いようなので、地元の有志が集まると、結局、昔からの友達の集まりになる事も結構在るようです。
それだと、私がイメージしてきたのとは大分違う感じになるような気もします。
つまり、自分達が作り上げてきた関係や環境を基盤とし、自分達の主体性を機軸として行なうイベント、と云う風になる事も考えられます。

何はともあれ、生徒達と保護者達が触れ、楽しんできた「おんべ焼き」ですから、先ずはそれを可能な限り実感したい気持ちが有ります。
そして、その中で私がそれをどう感じるのか、何か新しい見方を得る事が出来るか、それを試したい気持ちが有ります。
狭量で閉鎖的な因襲だ、と思ってきた伝統的な祭りに対して、新しい肯定的な見方を得る事が出来れば、これは面白い、と思います。
そう云う訳で、来年か再来年には、是非近所の「おんべ焼き」を見に行けたら、と思っています。

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私の経営する粟谷塾では、昨日、私のトルコ人の友人と生徒達とのテレビ電話を予定していましたが、まさかの先方の素っ放かし、と云う結果になってしまいました。
その友人の怖気付き様、萎縮振りは、考えてみると、この友人に限らず、普段時々遭遇する類の物でした。
友人は、自分の不始末を不可避の自然現象のように言って、全く悪びれる所が有りませんでした。
こう云う人には時々遭遇します。
自分の意志を自覚していれば、こう云う発想、考え方は出て来ようが無い、と思うのですが、自分の意志に自信が無く、意志を自覚していなければ、「自分のした事は仕方が無い。」と他人事のような見地に立つ事も出来ます。

また、「相手はトルコ語の挨拶を教えただけの小学生だ。」と何度も伝えたにも関わらず、友人は、トルコ語ペラペラの大学生か大人だ、と思い込んでいたようでした。
こう云う人にもまた、時々遭遇します。
自分に自信が無いと、焦って、状況を把握する余裕も持てず、状況を当込んで決め付けてしまうようです。

これらを考えてみると、自分に自信を持つ事は、人としての礼儀、自らの責任だ、と思います。
キリスト教の聖書が「臆病者」を第一の罪人と見做している事にも共感出来ます。―ヨハネの黙示録(ヨハネへの啓示)21章8節。
また、自信が無くても、欲深に強がらなければ、他人事のような言い逃れをしようとしたり、焦って状況を勝手に当込んだりする事も無い、と思います。
その「欲深」、やはりそこに、この問題の本質が有るような気がします。

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私の経営する粟谷塾は、師弟関係の根拠が授業料の授受に無い塾です。
生徒、保護者の皆さんの思い思いの感謝の気持ちを私が頂く、謝礼制と云う学費方式を採っています。

そう云う事をしていて気付かされるのは、意志を働かせるのでなければ感謝は出てこない、と云う事です。
言われた事を機械的に行う人からは、感謝と云う感情は出てこないようです。
つまり、感謝と云うのは極めて意志的な感情なのだ、と思います。

意志と感謝のこのような関係を理解すると、意志を重視してきた私が感謝をも重視したのは当然の事だったのだ、と分かり、嬉しくなります。
自分の内奥から出てくる気持ちや考えと云うのは、初めはそうとは分からなくても一貫している物ですね。

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ふと、下種は本当に得または徳を失う事を恐れて当込むのだろうか、と省みました。
得または徳を失う事を恐れて当込むのではなく、相手を下種だと当込んで自分の物に危害が加えられるのを恐れている、と見る事は出来ないか、と考えました。
更に言えば、私が嫌っているのは、「得または徳を失う事を恐れて」と云うのは必ずしも関係無く、突き詰めれば「当込み」なのではないか、とも考えました。

しかし、改めて当込みの具体的な事例を思い浮かべて考えてみると、思い浮かぶ事例に見られる恐れは全て、自分の物に危害が加えられる事への恐れではなく、得または徳を失う事への恐れである事に気付きました。
既に持っている物を失う事を恐れる場合には、それを失わせようとする実際の危険が在る、と思います。
実際の危険が無いのに、既に持っている物を失う事を恐れて当込む、と云う事例は思い付きませんでした。

今の所、私は、当込みを持っている人が、得または徳を失う事への恐れ以外の動機で当込んでいる事例を見付ける事が出来ませんでした。
ですから、今の所、私が見付けている限りでは、当込みの動機は全て、表面的には様々だとしても、得または徳を失う事への恐れに帰結する、と言えます。

従って、冒頭の疑問に戻れば、今の所、当込みの理由は得または徳を失う事への恐れ以外には無く、下種は得または徳を失う事を恐れて当込む、と言えます。

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3日木曜日に「模索の道」に、「戦争はなぜ起きるのか?―日清戦争における陸奥宗光の場合」を公開しましたが、これは、今後下種論を具体的な事例に適用して論じる場合の雛形になる、と思います。
文章の構成は、先ず冒頭で、取り上げた事例に下種論を適用した纏めを示し、それから、その纏めを詳細に分析し、最後に、改めて冒頭で示した纏めを示す、と云う構成です。
読者の皆さんには、下種論と云うのは馴染みが無いでしょうから、冒頭で纏めを示し最後にそれを繰り返すこの構成は分かり易いのではないか、と思います。
そして、私自身、下種論を具体的な事例に適用して論じる事に慣れていないので、文章の全体像を把握し易いこの構成は書き易い、と思います。
慣れてくれば違った構成でも書けるようになる、と思いますが、当面はこの構成が使い易いだろう、と思います。
下種論を具体的な事例に適用して論じる事は、常々挑戦したい事だったので、この構成に辿り着けて良かった、と思っています。

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模索の道」に、下種論の思索に続いて、戦争論の思索も再公開する事にしました。
戦争が起きる原因についての私の見極めは、下種論に基づいています。

また、それに伴って、「戦争はなぜ起きるのか?―日本は果たして戦争をせずにいられるのか?」も再公開しました。

興味の有る方は是非ご覧下さい。

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前回の記事に書いたもう一人の無礼者、横須賀市福祉事務所の職員について書きます。

私は、今まで、公的な扶助については生活保護しか知らなかったのですが、最近、他にも色々公的扶助制度が在るらしい事を知りました。
そこで、本格的に家塾(個人塾)を再開したばかりでまだ軌道に乗っていない今、利用させてもらえる物が在れば利用させてもらいたい、と思い、どんな公的扶助が在るのかを聞く為に横須賀市役所に行ったのでした。

座って待っているように言われたので待っていると、一人の職員が近付いてきて、「どう云った御相談ですか?」と尋ねてきました。
私は、「公的扶助について全般的に伺いたい。」と答えました。
その職員に案内されてカウンター席に着くと、その職員は、「初めに全般的なお話をします。その後、御希望であれば、貴方の事情に応じて具体的な話をします。」と言いました。
私がそれを承諾すると、その職員は、生活保護の概要から説明し始めました。

ところが、彼が「全般的なお話」と言った「お話」は、それだけで終わりました。
生活保護の概要、つまり、生活保護について誰でも知っていそうな事だけ話したら、「全般的な話はこれで終わりです。この先の話に進みたければ、これを書いてください。」と言って、個人の生活に立ち入った事を書かせる目的の何やら黄色い紙を差し出してきたのです。
私が元々尋ねた、生活保護以外の公的扶助の話は一つも出てきませんでした。
どうやら彼は、私が「公的扶助について全般的に聞きたい。」と言ったのを分かったような振りをしながら、私を、生活保護を要求しに来た人だ、と決め付けて話をしていたようです。

そこで、私は、「生活保護の他にはどう云う公的扶助制度が在るのですか?」と尋ねました。
すると、その職員は、「詳しい事を書かなければ言えません。」と答えました。
その黄色い紙を見ると、普通は他人には言わないような個人的な生活状況の事を、根掘り葉掘り尋ねて書かせる内容になっています。
そこで、私は、「この書類は役所で保管する、と云う事ですが、何年間保管するのですか?」と尋ねました。
すると、その職員は、突然居直り、居丈高に宣告するように、「そう云う事を訊くなら御相談は受け付けられません。信頼関係です。」と言いました。
びっくりしました。
噴飯物の「信頼関係」です。
「信頼関係」と言いながら、実際は、こちらが何の根拠も与えられずに一方的に信頼を要求され、向こうはこちらを品定めしようとしているのです。
それのどこが「信頼関係」なのか、と思いました。
丸で悪徳商法のようです。

更に、その職員は、「週に5日、フルタイムで働く正社員で、月給20万円、と云うようなのを探しても有りませんよ。」と訳知り顔で言いました。
私は、「今時、本気で求職している人ならば、誰がそんな求人が在ると思うのか。」と呆れました。
この職員は、それ程浮世離れした感覚で、日々相談に訪れた人に物を言っている訳です。
時代錯誤も甚だしいし、こう云う仕事をしているのなら、ちょっと外に目を向ければ直ぐに分かる事なのに、そういう小さな努力も怠っているのです。
更に踏み込んだ事を言えば、30代後半にもなると、自分の専門の業種の場合は―少なくとも塾業界の場合は―、「週に5日、フルタイムで働く正社員で、月給20万円、と云うような」求人が在れば、アルバイトの求人よりも採用される確率は高い、と云うのが私の経験上の観察です。
ただし、そう云う求人―学習塾で言えば教室長やエリア長の求人―は数が少ないです。
しかも、私は、この話の初めに訊かれて、自分で塾を開いたばかりで他塾でも講師をしている、と答えていたので、それをちゃんと聞いていれば、私が「週に5日、フルタイム」で他の職に就ける状況ではない事は分かる筈です。
つまり、この職員は、自分から尋ねておきながら、私の答えは聞いていなかった、と云う訳です。

私の答えを聞いていなかった、と言えば、この職員は、その問答の後にも拘らず、私がその日も他塾で授業が有ったのでスーツを着ていた所為か、私が「この後は仕事です。」と言うと、「面接ですか?」と言いました。
呆れて物が言えませんでした。

私は、この職員と話をしていても埒が明かない、と思い、「公的扶助や公的貸付制度について書いてある資料は有りませんか?」と尋ねました。
「公的貸付制度」と云う言葉は、彼が広げた生活保護の概要を説明した紙の中に書いてあったので、それを使いました。
向こうの言葉を使ってやらなければ、日本語の意味も分からないのだろう、と思ったからです。
私がそう訊くと、この職員は、一枚の紙を取り出してきましたが、説明しないと気が済まないのか、止せば良いのにその紙を開いて説明し出しました。
ところが、その説明によると、そこ(横須賀市福祉事務所)が管轄しているのは、「住宅手当」と云う物だけで、他はハローワークや社会福祉協議会の管轄だ、と云う事でした。
実は、この職員は、その少し前の話で、私の状況に合う公的扶助は、自分が思い付く限りでは「住宅手当」だけだ、と言っていたのです。
「思い付く限り」も何も、彼が扱えるのが「住宅手当」だけなのでした。

ここ数年、生活保護等の公的な支援を断られた後貧困の中で餓死した人のニュースや、その一方で、生活保護を受けて贅沢している人のニュースを、しょっちゅう聞くようになりました。
こうしたニュースを見聞きすると、公的な支援を与えられる人と与えられない人の選別に、非常に疑問を感じます。
しかし、横須賀市福祉事務所のこの職員のような人がそれを決めているのであれば、そう云う事が起きるのも何ら不思議ではありません。
この職員は、相談者の話を聞く振りをしながら全く聞かず、自分が相手をしている人達の世界の現状を知ろうともせずに、自分の浮世離れした決め付けで話し、それを一方的独善的に正当化して相談者に押し付けているのです。
しかも、自分のその独善を押し通す為には、悪徳商法紛いの遣り方さえ厭わないのです。
こんな輩から、現実に調和したまともな判断が出てくる訳が有りません。

福祉事務所に相談に来る人の中には、私などより遥かに切実な状況に在る人も居るだろう、と思います。
今日明日の生活も知れないような人、住む家すら無い程困窮し絶望の淵に在るような人も多いだろう、と思います。
そんな人達は、藁にも縋る思いで遣ってきた福祉事務所で、こんな理不尽で無礼な待遇を受ければ、腸(はらわた)が煮え繰り返り、憤懣遣る方無い思いになるだろう、と思います。
この職員のしょーもない自己満足、自己正当化の為に、相談者は今夜も凍える思いで絶望しながら路上で寝なければならないかも知れないのです。
率直に言って、許し難い事だ、と思います。

更に、彼が人を舐めているのは、彼がそんな仕方で与えるかどうか(貸し付けるかどうか)を決めているお金は、市民から集めている税金だ、と云う事です。
私自身は、現代の税金も結局は年貢と同じ物だ、と思っているので、その使われ方にどうこう思う事は無いのですが―まあ、納めている金額も少ないですが―、少なくとも現代社会の建前としては、税金は公共の利益に資する使い方をするように自治体や政府に委ねられたお金の筈です。
要するに、税金は納めた市民の物だ、と云うのが現代社会の在り方の筈です。
それをこう云う仕方で使う、と云うのは、市民を侮る行為だ、と思います。

実は、私が横須賀市の職員から不快な目に遭わされたのは、これが初めてです。
普段は行政センターやコミュニティセンターを利用していますが、そこで出会う職員は、むしろ、謙虚で気遣いを示してもくださる良い方ばかりです。
その横須賀市ですらこんな職員に出会う、と云う事は、他の市区町村は推して知るべしだ、と思います。
実際、以前住んでいたさいたま市中央区では、出会う職員の多くはもっと悪質で無礼でした。
その事を考えると、今ここに書いたような事やもっと酷い事は、日本中で日常茶飯事なのだろう、と思います。


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プロフィール
HN:
粟谷 聡
年齢:
52
HP:
性別:
男性
誕生日:
1971/09/03
職業:
粟谷塾塾長
趣味:
他の誰でもない私自身の人生
自己紹介:
在野の思索家です。家塾粟谷塾を経営しながら、自分の納得出来る生き方、在り方を模索しています。
粟谷塾のブログ「粟谷塾の夜話」も随時更新中です。
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