自分の納得出来る生き方、在り方を求めて思索し続け、省察と観察を続ける日々の雑感、随想を綴ります。
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最近、私にとって「考える」とはどういう事だったかを顧みる機会が有りました。
実はこれは、私にとって、長く難問でした。
人は、言葉を使って、自分の捉えた世界に在る物(事物や現象)を分類し、分かり易くして把握しようとします。
所謂「名付け」ですね。
例えば、多くの人は、或る生き物と他の生き物を一つの分類に括って「人間(ヒト)」と呼び、別の或る生き物と他の生き物を一つの分類に括って「動物」と呼びます。
そして、「人間」が言葉を発すると「話す」と呼び、「動物」が言葉を発すると「鳴く」と呼びます。
他人の分類が私の分類と違っていたら、他人がその分類に付けた名と分類の仕方、つまりその人の概念は私の概念の中には無い筈です。
普通、他人の分類と私の分類は違うので、他人の概念で私の分類を説明する事は出来ません。
ですから、私の捉えている世界を、他人の概念で把握しようとするのは、見当違いです。
私の捉えている世界の中に他人の概念が示す分類が有る、と思うのも、まぐれに期待を寄せるようなもので、馬鹿げた事です。
長く掛かった末に、私は、そういう事に気付きました。
凡そ世の中に出回っている概念は、全て他人の概念です。
他人が世界を分類して名付けた概念であり、私の捉えている世界を説明する概念ではありません。
私は、私にとって納得出来る、私の捉えている世界を説明する概念を求めなければならなかったのです。
その事に気付いたのは、私にとって一つの画期でした。
それからは、幾ら考えても痒い所に手が届かない、というような歯痒さを味わう事は無くなりました。
実際の所、私はそういう風に考えようとしていたのですが、それまでに受け入れていた他人の概念が私の内省を邪魔していたのでした。
例えば、「子供」という概念。
これは、私にとっては、「親子関係における子の方」という意味しか有りません。
世間一般に「大人」と対比される存在としての、「教育される必要の有る年少の人間」というような概念は、私の中には有りません。
なぜなら、私は、十代やそれ以下の年齢の人が、知力や精神において、それ以上の年齢の人よりも未熟だとは捉えていないからです。
私が塾の生徒との触れ合いを通して見て来た事は、『子どものことを子どもにきく (新潮OH!文庫)』に描かれているのとよく似ています。
その本でインタヴューを受けている子供がそうであるように、私の知る限り、「子供」は生来、自分が知り得る情報の範囲内で、不都合の生じないように合理的に世界を把握し、暮らしています。
それは、例えば、天動説を信じて生きていた昔の「大人」と同じです。
むしろ、「子供」の方が「大人」よりも的確に世界を捉えている、と思える事もしばしば有ります。
それはちょうど、地動説が浸透している今でも、地球と天体の関係を捉えるには天球を想定する方が分かり易い(中学校の理科の授業のように)のと同じです。
私自身、「大人」に教えられた事よりも、「子供」の頃に自分が考えていた事の方が的確だった、と思い知る事がしょっちゅう有ります。
ですから、今私は、世間一般に言うような、「大人」と「子供」の違いは、本質的に言って、無い、と思っています。
私には、そういう意味での「子供」という概念は有りません。
因みに、歴史の本によると、今有る「子供」という概念は、近代ヨーロッパで考え出された物だそうです。
また、例えば、「宗教」という概念。
私は今、世間一般に言う「宗教」とは、つまり、「宗教」という概念の実体は、「宗教」と呼ばれる物への帰属意識の事だ、と思っています。
トルコに住んでいた頃、「貴方の宗教は何ですか?」とよく尋ねられたものです。
彼らは、「キリスト教」だとか「仏教」だとか「イスラム教」だとかの答えを期待しています。
これらは、私の見方では全て「帰属」の事です。
「私はそういう物に所属してはいないし、神の存在を確信しているとも言えないが、神には居て欲しいと切に願っている。だから、私の生活や人生は、神と切り離す事が出来ない。」と言って通じた試しは有りません。
この説明は、トルコでだけでなく、日本ででも何処ででも、通じた事は有りません。
また、「宗教」に「帰属」している人達の、日々の生活の中で神を意識する程度は、私のそれと比べて実に少なく薄く見えます。
「無神論者」と呼ばれる私がいつも「神は居るかも知れない。」と思いながら自分の行動を決めているのに対して、「宗教者」の彼らの日常的な行動が神に対する意識によって決められる事は先ず有りません。
「貴方のその行動には、『宗教』にではなく『神』の方に向いている意識がどのように反映されているのか?」と尋ねても、その意味が通じた試しは有りません。
私には、世間一般に言う「宗教」とは、「神」という看板だけ立てて神を忘れ「帰属」する事とその為の様々な作法や文化、つまり、神とは何の関係も無い只の「帰属」だ、と見えます。
私自身の概念には、「宗教」は有りません。
有る事にするならば、私は、会社への帰属意識や国民や社会人としての帰属意識等も「宗教」と呼びます。
世間一般に「宗教」と呼ばれている物と関連の有る私の概念には、「神」とか「組織」とか「道徳」とか「迎合」とか「自己正当化」とか「思い込み」とかが有りますが、この中で私が欲しがっているのは「神」だけです。
二つだけ例を挙げましたが、このように、他人の概念、世間一般の概念で私の捉えている世界を把握しようとするのは、見当違いの馬鹿げた事でした。
私が必要としていたのは、私が捉えている世界を説明する私の概念、私の言葉を、一から作り上げる事(世間一般の概念を転用する事も含めて)でした。
私は、自分がずっとそれをしようとしていた事を、30代になって漸く悟ったのでした。
世間一般の概念は、他人に手っ取り早く伝える為の便宜、そして、私の概念や私の言葉を作り上げる為の参考や叩き台になるだけです。
※宗教や神に対する私の姿勢は、「無宗教(英語Irreligion、トルコ語Dinsizlik)」と「無神論(英語Atheism、 トルコ語Ateizm)」という概念を導入する事によって、―私自身が把握する為ではなく、また、他人に通じるかどうかは兎も角面倒を避ける為に、―説明出来るかも知れません。
実はこれは、私にとって、長く難問でした。
人は、言葉を使って、自分の捉えた世界に在る物(事物や現象)を分類し、分かり易くして把握しようとします。
所謂「名付け」ですね。
例えば、多くの人は、或る生き物と他の生き物を一つの分類に括って「人間(ヒト)」と呼び、別の或る生き物と他の生き物を一つの分類に括って「動物」と呼びます。
そして、「人間」が言葉を発すると「話す」と呼び、「動物」が言葉を発すると「鳴く」と呼びます。
他人の分類が私の分類と違っていたら、他人がその分類に付けた名と分類の仕方、つまりその人の概念は私の概念の中には無い筈です。
普通、他人の分類と私の分類は違うので、他人の概念で私の分類を説明する事は出来ません。
ですから、私の捉えている世界を、他人の概念で把握しようとするのは、見当違いです。
私の捉えている世界の中に他人の概念が示す分類が有る、と思うのも、まぐれに期待を寄せるようなもので、馬鹿げた事です。
長く掛かった末に、私は、そういう事に気付きました。
凡そ世の中に出回っている概念は、全て他人の概念です。
他人が世界を分類して名付けた概念であり、私の捉えている世界を説明する概念ではありません。
私は、私にとって納得出来る、私の捉えている世界を説明する概念を求めなければならなかったのです。
その事に気付いたのは、私にとって一つの画期でした。
それからは、幾ら考えても痒い所に手が届かない、というような歯痒さを味わう事は無くなりました。
実際の所、私はそういう風に考えようとしていたのですが、それまでに受け入れていた他人の概念が私の内省を邪魔していたのでした。
例えば、「子供」という概念。
これは、私にとっては、「親子関係における子の方」という意味しか有りません。
世間一般に「大人」と対比される存在としての、「教育される必要の有る年少の人間」というような概念は、私の中には有りません。
なぜなら、私は、十代やそれ以下の年齢の人が、知力や精神において、それ以上の年齢の人よりも未熟だとは捉えていないからです。
私が塾の生徒との触れ合いを通して見て来た事は、『子どものことを子どもにきく (新潮OH!文庫)』に描かれているのとよく似ています。
その本でインタヴューを受けている子供がそうであるように、私の知る限り、「子供」は生来、自分が知り得る情報の範囲内で、不都合の生じないように合理的に世界を把握し、暮らしています。
それは、例えば、天動説を信じて生きていた昔の「大人」と同じです。
むしろ、「子供」の方が「大人」よりも的確に世界を捉えている、と思える事もしばしば有ります。
それはちょうど、地動説が浸透している今でも、地球と天体の関係を捉えるには天球を想定する方が分かり易い(中学校の理科の授業のように)のと同じです。
私自身、「大人」に教えられた事よりも、「子供」の頃に自分が考えていた事の方が的確だった、と思い知る事がしょっちゅう有ります。
ですから、今私は、世間一般に言うような、「大人」と「子供」の違いは、本質的に言って、無い、と思っています。
私には、そういう意味での「子供」という概念は有りません。
因みに、歴史の本によると、今有る「子供」という概念は、近代ヨーロッパで考え出された物だそうです。
また、例えば、「宗教」という概念。
私は今、世間一般に言う「宗教」とは、つまり、「宗教」という概念の実体は、「宗教」と呼ばれる物への帰属意識の事だ、と思っています。
トルコに住んでいた頃、「貴方の宗教は何ですか?」とよく尋ねられたものです。
彼らは、「キリスト教」だとか「仏教」だとか「イスラム教」だとかの答えを期待しています。
これらは、私の見方では全て「帰属」の事です。
「私はそういう物に所属してはいないし、神の存在を確信しているとも言えないが、神には居て欲しいと切に願っている。だから、私の生活や人生は、神と切り離す事が出来ない。」と言って通じた試しは有りません。
この説明は、トルコでだけでなく、日本ででも何処ででも、通じた事は有りません。
また、「宗教」に「帰属」している人達の、日々の生活の中で神を意識する程度は、私のそれと比べて実に少なく薄く見えます。
「無神論者」と呼ばれる私がいつも「神は居るかも知れない。」と思いながら自分の行動を決めているのに対して、「宗教者」の彼らの日常的な行動が神に対する意識によって決められる事は先ず有りません。
「貴方のその行動には、『宗教』にではなく『神』の方に向いている意識がどのように反映されているのか?」と尋ねても、その意味が通じた試しは有りません。
私には、世間一般に言う「宗教」とは、「神」という看板だけ立てて神を忘れ「帰属」する事とその為の様々な作法や文化、つまり、神とは何の関係も無い只の「帰属」だ、と見えます。
私自身の概念には、「宗教」は有りません。
有る事にするならば、私は、会社への帰属意識や国民や社会人としての帰属意識等も「宗教」と呼びます。
世間一般に「宗教」と呼ばれている物と関連の有る私の概念には、「神」とか「組織」とか「道徳」とか「迎合」とか「自己正当化」とか「思い込み」とかが有りますが、この中で私が欲しがっているのは「神」だけです。
二つだけ例を挙げましたが、このように、他人の概念、世間一般の概念で私の捉えている世界を把握しようとするのは、見当違いの馬鹿げた事でした。
私が必要としていたのは、私が捉えている世界を説明する私の概念、私の言葉を、一から作り上げる事(世間一般の概念を転用する事も含めて)でした。
私は、自分がずっとそれをしようとしていた事を、30代になって漸く悟ったのでした。
世間一般の概念は、他人に手っ取り早く伝える為の便宜、そして、私の概念や私の言葉を作り上げる為の参考や叩き台になるだけです。
※宗教や神に対する私の姿勢は、「無宗教(英語Irreligion、トルコ語Dinsizlik)」と「無神論(英語Atheism、 トルコ語Ateizm)」という概念を導入する事によって、―私自身が把握する為ではなく、また、他人に通じるかどうかは兎も角面倒を避ける為に、―説明出来るかも知れません。
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