自分の納得出来る生き方、在り方を求めて思索し続け、省察と観察を続ける日々の雑感、随想を綴ります。
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中山美穂さんの『なぜなら やさしいまちが あったから』という本を手にする機会が有り、ぱらぱらページを捲っていると、197ページにこんな記述が有りました。
何十年も前から、日本人が意味も無く謝る事が世界の人から怪訝に見られている、という話はあちらこちらで喧伝されていて、私も、そうなのだろうか、と自分自身を省みてきたものです。
しかし、そうやって省みてきた結果、今は、意味も無く謝っている、とは思っていないし、これで良い、と思っています。
私は、こういう場合に謝るのは、相手の働きや心遣いを台無しにした事に対して謝っているのだ、と思っています。
折角注いでくれた水を零してしまった事に対する謝り。
注いでくれた労力を台無しにしてしまった事に対する謝り。
折角教えてくれたのに習得出来なかった事に対する謝り。
教えてくれた労力を台無しにしてしまった事に対する謝り。
そういう事だ、と思います。
後者については、私は、塾師としての立場や経験から、出来ないから教えている、教わっているのに、出来ない事を悪い事のように見做している人が多い、と感じています。
出来ないのを承知の上で、出来ないのを出来るようにさせるのがこちらの務めだ、と思っているので、その前提である筈の出来ない事を謝られると、困惑します。
しかし、前者については、「覆水盆に返らず。」の諺通り、取り返しの付かない事であって、水を注いでくれた相手の働きを無駄にした事に対して謝る事に、私は、何の違和感も感じません。
特に、「見苦しい」という日本語が示すように、日本人には、自分の所作の一つ一つをも、相手が見て心地好い物にしようとする文化が、昔から有ったようです。
そういう文化の目で見れば、単に「水を注ぐ」という小さな働きの中にも、見て心地好い物にしようとする相手の心遣いが有ったかも知れない、と感じます。
そうだとすれば、それ程の「有り難い」働きを台無しにしてしまった事に対して謝るのは、私としては、とても自然な、納得の行く事です。
但し、そういう意味で謝っている、と言えば、外国の人には物凄く驚嘆されるでしょうけど。
中山美穂さんの文章には独特のリズム感が有って読みやすいですし、内容にも共感したり考えさせられたり省みさせられたりする所が多いようなので、出来れば時間を見付けてきちんと読んでみたいです。
ある日、カフェでグラスの水をこぼし、洋服が水浸しになりました。幸いグラスは割れませんでしたが、「ごめんなさい」と言った私に対して、お店の人は「何がごめんなさいなの?あなたのため?」と言っていました。通っている刺繍学校で、刺し方を間違ってしまい、「ごめんなさい、間違えました!」と言った時、先生は「なぜ謝るの?あなたのものでしょう?」と返しました。・・・私もよく謝る方だと思いますし、そういう人は多いと思います。
よく考えてみれば当たり前のことで、意味もなく謝ったり笑ったりすることは、フランス人にとって信用できない人物になってしまうのです。・・・ということは、日本語の使い方もそもそも間違っているのではないかと思い、それはつまり、現代の日本語がものすごく間違っているのではないかと考えを巡らせてしまうほどの途方の暮れようなのです。
何十年も前から、日本人が意味も無く謝る事が世界の人から怪訝に見られている、という話はあちらこちらで喧伝されていて、私も、そうなのだろうか、と自分自身を省みてきたものです。
しかし、そうやって省みてきた結果、今は、意味も無く謝っている、とは思っていないし、これで良い、と思っています。
私は、こういう場合に謝るのは、相手の働きや心遣いを台無しにした事に対して謝っているのだ、と思っています。
折角注いでくれた水を零してしまった事に対する謝り。
注いでくれた労力を台無しにしてしまった事に対する謝り。
折角教えてくれたのに習得出来なかった事に対する謝り。
教えてくれた労力を台無しにしてしまった事に対する謝り。
そういう事だ、と思います。
後者については、私は、塾師としての立場や経験から、出来ないから教えている、教わっているのに、出来ない事を悪い事のように見做している人が多い、と感じています。
出来ないのを承知の上で、出来ないのを出来るようにさせるのがこちらの務めだ、と思っているので、その前提である筈の出来ない事を謝られると、困惑します。
しかし、前者については、「覆水盆に返らず。」の諺通り、取り返しの付かない事であって、水を注いでくれた相手の働きを無駄にした事に対して謝る事に、私は、何の違和感も感じません。
特に、「見苦しい」という日本語が示すように、日本人には、自分の所作の一つ一つをも、相手が見て心地好い物にしようとする文化が、昔から有ったようです。
そういう文化の目で見れば、単に「水を注ぐ」という小さな働きの中にも、見て心地好い物にしようとする相手の心遣いが有ったかも知れない、と感じます。
そうだとすれば、それ程の「有り難い」働きを台無しにしてしまった事に対して謝るのは、私としては、とても自然な、納得の行く事です。
但し、そういう意味で謝っている、と言えば、外国の人には物凄く驚嘆されるでしょうけど。
中山美穂さんの文章には独特のリズム感が有って読みやすいですし、内容にも共感したり考えさせられたり省みさせられたりする所が多いようなので、出来れば時間を見付けてきちんと読んでみたいです。
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