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自分の納得出来る生き方、在り方を求めて思索し続け、省察と観察を続ける日々の雑感、随想を綴ります。
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2004年から2005年に掛けてトルコに居た頃、トルコ語で日常使う言葉で、Jで始まる単語は、「Japon」(日本人、日本の)と「Japonya」(日本)と「Jandarma」(ジャンダルマ、憲兵)だけでした。
つまり、日本や日本人と関わりの無い人にとって、Jの文字を読んだり書いたりするのは、「Jandarma」を読んだり書いたりする時だけのようでした。
トルコ語では「ジ」の発音はCで表すので、実際、「日本」と書くのに「Caponya」と書いた人も居ました。
そして、これらの単語は、「Japon」と「Japonya」は言うまでも無く、「Jandarma」もフランス語起源のようで、全て外来語(借用語)です。
外来語(借用語)ではない元々のトルコ語(固有語)には、Jで始まる単語は無いようでした。

ところが、現代トルコ語には、Jだけでなく、H、L、M、N、R、Zで始まる固有語も殆ど無いらしい事を示すページを、昨日偶然見付けました。 匈奴は何語をしゃべっていたか?」によると、H、L、M、N、R、Zの中ではNで始まる固有語が多いようですが、それでも「トルコ語固有の単語でnで始まるものは、『何』のneとその派生語しかありません。」との事です。
また、先に書いたCで始まる単語についても、「ほとんどが外来語起源である」と書かれています。
更には、Dで始まる固有語が有るかどうかについても、議論の有る事が指摘されています。
尚、現代トルコ語では、通常、Q、q、W、w、X、xの文字は使われていません。

現代トルコ語の内、C、H、J、L、M、N、R、Z、(もしかするとDも)で始まる単語はほぼ全て固有語ではなく、母音またはB、Ç、F、G、K、P、S、Ş、T、V、Yで始まる単語の中にも外来語(借用語)が有る、と考えると、固有語が随分少ない気がします。
固有語ではないトルコ語が思った以上に多いらしい事を知って、驚きました。

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「ヤコブの梯子」の彫刻、バース寺院Bath Abbey、イギリス

※この詩は、2006/04/20(木)に一度公開していた物です。右の画像は、イギリスのバースに在るバース寺院Bath Abbey西側正面に彫刻された「ヤコブの梯子」だそうです。出所はWikipedia拡大画像)です。

私は天国に憧れていた。
この世界と天国の間には梯子が架けられていた。
ほら、み使いたちが梯子を上り下りしているじゃないか。
私も梯子を上っていた。
私はこの世界を外から見て、この世界には加わりたくないと思った。
この世界には表面と内側があり、打算と欺瞞とはったりと強がりが浸透していたからだ。

砂漠には蜃気楼というものがあるという。
蜃気楼とは、「熱のために大気中で光が異常に屈折し、空中や地上に何か物が有るように見える現象」だという。(*)
み使いたちも天国も光り輝いている。
光は揺らめき曲がりくねり、次第に霧に包まれるように霞んで行った。

通り掛かりの友達が、私の背中を叩いて、「梯子に上って何をしてるの?」と声を掛けて来た。
天国は消え、その代わりに分かり易い現実が目に押し寄せた。
私は、「いや、ちょっとね」と答えた。
友達と別れた後、私は梯子を下りた。
梯子の先に手を伸ばしてみると、天国に手が届いた。

新明解国語辞典 第三版より

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サイトとブログの再編を進めている所ですが、「模索の道」に「ルカ14:28 費用を計算して無理そうだったらイエスの弟子になるのを諦めるべきなのか?」というページを新しく作りながら見付けた「ジーザスJesus」という映画には、とても考えさせられました。
ルカによる福音書に基づいて作られた映画だそうで、イエス・キリストの地上での足跡を聖書の朗読と共に辿っています。

私が特に考えさせられたのは、刑死の時が近付いた頃のイエス・キリストの、ユダ・イスカリオテとシモン・ペテロに対する姿勢です。
イエス・キリストには、ユダ・イスカリオテが自分を裏切る事や、シモン・ペテロが自分を三度否認する事が、予め分かっていました。
イエス・キリストは、何とかして彼らの心に訴え掛けたかったでしょうが、敢えて神の定めを甘受して、何もしなかった訳です。
そこには、神に対する絶大な信頼が有る、と思いました。
壮絶な戦慄を感じました。

聖書は確かに神の言葉であるとか、イエス・キリストは神の子であるとか、神は実在するとかを、私は今の所客観的に断言する事は出来ません。
しかし、聖書には、心にぐっと迫って来る、非常に納得を感じさせてくれる、魅力的な人物や話が沢山出て来ます。
私は今迄特に、聖書の神(エホバの証人は「エホバ」と呼び、他のクリスチャンは「父なる神」と呼びます。)に魅力を感じ、イエス・キリストにはそれ程魅力を感じませんでしたが、今回は、イエス・キリストの凄さに圧倒されました。
その内、「模索の道」の聖書の欄で、この映画を見て思った事を、もっときちんと書ければ、と思います。

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粟谷塾を的確に説明する言葉を探す中で、「ポテンシャル」という言葉について検索する機会が有りました。
その経緯等については、「粟谷塾の夜話」の「ポテンシャル、位置エネルギー」と題した記事を見てもらいたいのですが、興味深かったのは、「ポテンシャル」という言葉には、「可能性、潜在能力」という意味の他に、「位置エネルギー」という意味も有る、という事です。

位置エネルギーとは、物理(力学)の用語で、高い位置に在る物体が持つエネルギーを指し、学校では中学校の理科1分野で取り上げられています。
そして、学校でこれを教わる時、同時に「力学的エネルギー保存の法則」というのも教わります。
これは、或る運動において物体の位置エネルギーと運動エネルギーの合計は一定だ、という法則です。

今回、この「力学的エネルギー保存の法則」について、新しいイメージで考える事が出来ました。
と言うのは、位置エネルギーを「ポテンシャル」と呼ぶのは、高い位置に在る物体には運動エネルギーを発揮する可能性が有る、または、高い位置に在る物体には運動エネルギーが潜在している(蓄えられている)、と見做されているからだ、と分かったからです。
つまり、「力学的エネルギー保存の法則」が言っているのは、物体が運動エネルギーを発揮するポテンシャル(可能性、潜在能力)を「位置エネルギー」と名付けて、まだ発揮されていない運動エネルギーも、発揮された運動エネルギーと同等と見做す、という事なのです。

これは、人間の能力で言えば、既に発揮している能力だけではなく、可能性、潜在能力も含めて、その人の能力を判断する、という事だ、と思います。
結果だけで判断しない、という事であり、物理(力学)の癖に、案外人間的で温かい考え方だ、と言えるかも知れませんね。

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最近、私にとって「考える」とはどういう事だったかを顧みる機会が有りました。
実はこれは、私にとって、長く難問でした。

人は、言葉を使って、自分の捉えた世界に在る物(事物や現象)を分類し、分かり易くして把握しようとします。
所謂「名付け」ですね。
例えば、多くの人は、或る生き物と他の生き物を一つの分類に括って「人間ヒト)」と呼び、別の或る生き物と他の生き物を一つの分類に括って「動物」と呼びます。
そして、「人間」が言葉を発すると「話す」と呼び、「動物」が言葉を発すると「鳴く」と呼びます。
他人の分類が私の分類と違っていたら、他人がその分類に付けた名と分類の仕方、つまりその人の概念は私の概念の中には無い筈です。
普通、他人の分類と私の分類は違うので、他人の概念で私の分類を説明する事は出来ません。
ですから、私の捉えている世界を、他人の概念で把握しようとするのは、見当違いです。
私の捉えている世界の中に他人の概念が示す分類が有る、と思うのも、まぐれに期待を寄せるようなもので、馬鹿げた事です。
長く掛かった末に、私は、そういう事に気付きました。

凡そ世の中に出回っている概念は、全て他人の概念です。
他人が世界を分類して名付けた概念であり、私の捉えている世界を説明する概念ではありません。
私は、私にとって納得出来る、私の捉えている世界を説明する概念を求めなければならなかったのです。
その事に気付いたのは、私にとって一つの画期でした。
それからは、幾ら考えても痒い所に手が届かない、というような歯痒さを味わう事は無くなりました。
実際の所、私はそういう風に考えようとしていたのですが、それまでに受け入れていた他人の概念が私の内省を邪魔していたのでした。

例えば、「子供」という概念。
これは、私にとっては、「親子関係における子の方」という意味しか有りません。
世間一般に「大人」と対比される存在としての、「教育される必要の有る年少の人間」というような概念は、私の中には有りません。
なぜなら、私は、十代やそれ以下の年齢の人が、知力や精神において、それ以上の年齢の人よりも未熟だとは捉えていないからです。
私が塾の生徒との触れ合いを通して見て来た事は、『子どものことを子どもにきく (新潮OH!文庫)』に描かれているのとよく似ています。
その本でインタヴューを受けている子供がそうであるように、私の知る限り、「子供」は生来、自分が知り得る情報の範囲内で、不都合の生じないように合理的に世界を把握し、暮らしています。
それは、例えば、天動説を信じて生きていた昔の「大人」と同じです。
むしろ、「子供」の方が「大人」よりも的確に世界を捉えている、と思える事もしばしば有ります。
それはちょうど、地動説が浸透している今でも、地球と天体の関係を捉えるには天球を想定する方が分かり易い(中学校の理科の授業のように)のと同じです。
私自身、「大人」に教えられた事よりも、「子供」の頃に自分が考えていた事の方が的確だった、と思い知る事がしょっちゅう有ります。
ですから、今私は、世間一般に言うような、「大人」と「子供」の違いは、本質的に言って、無い、と思っています。
私には、そういう意味での「子供」という概念は有りません。
因みに、歴史の本によると、今有る「子供」という概念は、近代ヨーロッパで考え出された物だそうです。

また、例えば、「宗教」という概念。
私は今、世間一般に言う「宗教」とは、つまり、「宗教」という概念の実体は、「宗教」と呼ばれる物への帰属意識の事だ、と思っています。
トルコに住んでいた頃、「貴方の宗教は何ですか?」とよく尋ねられたものです。
彼らは、「キリスト教」だとか「仏教」だとか「イスラム教」だとかの答えを期待しています。
これらは、私の見方では全て「帰属」の事です。
「私はそういう物に所属してはいないし、神の存在を確信しているとも言えないが、神には居て欲しいと切に願っている。だから、私の生活や人生は、神と切り離す事が出来ない。」と言って通じた試しは有りません。
この説明は、トルコでだけでなく、日本ででも何処ででも、通じた事は有りません。
また、「宗教」に「帰属」している人達の、日々の生活の中で神を意識する程度は、私のそれと比べて実に少なく薄く見えます。
「無神論者」と呼ばれる私がいつも「神は居るかも知れない。」と思いながら自分の行動を決めているのに対して、「宗教者」の彼らの日常的な行動が神に対する意識によって決められる事は先ず有りません。
「貴方のその行動には、『宗教』にではなく『神』の方に向いている意識がどのように反映されているのか?」と尋ねても、その意味が通じた試しは有りません。
私には、世間一般に言う「宗教」とは、「神」という看板だけ立てて神を忘れ「帰属」する事とその為の様々な作法や文化、つまり、神とは何の関係も無い只の「帰属」だ、と見えます。
私自身の概念には、「宗教」は有りません。
有る事にするならば、私は、会社への帰属意識や国民や社会人としての帰属意識等も「宗教」と呼びます。
世間一般に「宗教」と呼ばれている物と関連の有る私の概念には、「」とか「組織」とか「道徳」とか「迎合」とか「自己正当化」とか「思い込み」とかが有りますが、この中で私が欲しがっているのは「神」だけです。

二つだけ例を挙げましたが、このように、他人の概念、世間一般の概念で私の捉えている世界を把握しようとするのは、見当違いの馬鹿げた事でした。
私が必要としていたのは、私が捉えている世界を説明する私の概念、私の言葉を、一から作り上げる事(世間一般の概念を転用する事も含めて)でした。
私は、自分がずっとそれをしようとしていた事を、30代になって漸く悟ったのでした。
世間一般の概念は、他人に手っ取り早く伝える為の便宜、そして、私の概念や私の言葉を作り上げる為の参考や叩き台になるだけです。
※宗教や神に対する私の姿勢は、「無宗教(英語Irreligion、トルコ語Dinsizlik)」と「無神論(英語Atheism、 トルコ語Ateizm)」という概念を導入する事によって、―私自身が把握する為ではなく、また、他人に通じるかどうかは兎も角面倒を避ける為に、―説明出来るかも知れません。


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コンスタンティノポリスの城壁を攻撃するオスマン帝国軍、パノラマ1453年博物館、イスタンブル、トルコ模索の道」に「ビザンティン(東ローマ)皇帝の栄枯盛衰物語」と題するページを作っている最中、パノラマ1453年博物館Panorama 1453 Tarih Müzesiの事を初めて知りました。
パノラマ1453年博物館Panorama 1453 Tarih Müzesiは、トルコイスタンブルに在る博物館で、1453年のメフメト2世オスマン帝国軍によるコンスタンティノポリス征服を、臨場感溢れる仕掛けで追体験させる事に的を絞った博物館のようです。
戦争の追体験というのは嬉しくないですが、臨場感についてはかなり興味深い博物館という感じがします。
私としては、「模索の旅」に作成中の「歴史追体験ツアー イスタンブル(トルコ)」の趣旨とも追体験という点で似ているようなので、その点でも興味深いです。

パノラマ1453年博物館Panorama 1453 Tarih Müzesiの公式サイトを訪問してみました。
正にパノラマで、コンスタンティノポリスの城壁前での戦闘の真っ只中に居る視点で周りを見回せるような仕掛けになっています。
言語はトルコ語と英語で、パノラマ1453年博物館Panorama 1453 Tarih Müzesiの紹介やスタッフ紹介、地図の他に、宣伝用動画や展示絵画のギャラリー、来館した賓客のコメント等が載せられていました。
公式サイトの説明によると、パノラマ1453年博物館Panorama 1453 Tarih Müzesiは、2009年1月31日に開館したようです。
場所は、1453年にメフメト2世オスマン帝国軍がここからコンスタンティノポリスに入城した、という大砲門(トルコ語トプカプTopkapı)の近くに在るトプカプ文化公園Topkapı Kültür Parkı内のようです。
もしもパノラマ1453年博物館Panorama 1453 Tarih Müzesiに行く場合には、市内電車tramvayゼイティンブルヌ‐カバタシュ線Zeytinburnu-Kabataş tramvay hattı(路線番号T1)等が通っているトプカプTopkapı駅で降りると良いみたいです(地図)。

公式サイトに掲載されている宣伝用動画の一部がYouTubeに投稿されていたので、「ビザンティン(東ローマ)皇帝の栄枯盛衰物語」に大画面で貼り付けてみました。
ナレーションはトルコ語ですが、言っている事が分からなくても、十分見応えの有る動画だ、と思います。
兵士達の服装や攻城具(投石器や大砲)、戦闘の様子等、リアルで真に迫っており、日本の施設や史料ではなかなか見る事の出来ない物だ、と思います。
YouTubeでのこの動画には、「Fatih ve Fetih İstanbul panaroma müzesi 1453」というタイトルが付いていますが、「Fatih」とは「征服者」という意味、「Fetih」とは「征服」という意味です。
また、動画の中に出て来る「29 Mayıs 1453」というのは、「1453年5月29日」という意味で、コンスタンティノポリスが陥落した日付を指しています。
動画の最初と最後に出て来る「İSTANBUL BÜYÜKŞEHİR BELEDİYESİ」というのは、「イスタンブル市」という意味です。
因みに、トルコの行政区画では、イスタンブル市(トルコの他の大都市も)は、県(トルコ語イルil)内の幾つかの郡(トルコ語イルチェilçe)を大都市圏(トルコ語ビュユックシェヒールBüyükşehir)として束ねる位置付けになっています。

1453年のメフメト2世オスマン帝国軍によるコンスタンティノポリス征服は、世界史の中でも特に画期的な出来事で、ヨーロッパ中世の終わりの象徴として日本の学校でも必ず習う出来事ですが、やはり日本人には縁遠く、無味乾燥な言葉としてしか学ばないのではないか、と思います。
その点、パノラマ1453年博物館Panorama 1453 Tarih Müzesiの動画や絵を見るだけでも、歴史を実感するのには大いに役立つ、と思います。
是非、オススメです。

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昨日、「模索の道」に「ビザンティン(東ローマ)皇帝の栄枯盛衰物語」と題するページを作り始めました。
このページは、「模索の旅」に作成中の「歴史追体験ツアー イスタンブル(トルコ)」の付録で、元々このブログの記事にするつもりで書き始めた物です。
それが、書いている内に、どんどんボリュームが大きくなって行ったので、ページにしても良いじゃないか、と思い、そうする事にしました。

元々は簡単な一覧を作るつもりだったのが、それとは全然違うボリュームの内容になってしまいました。
今はまだ3人分しか公開出来ていませんが、ビザンティン(東ローマ)皇帝は全部で80人以上居るので、相当大きなページになりそうです。
下書きは、多分50人分以上は書けている、と思います。
これから、微調整を加えながら、少しずつ公開して行きたい、と思っています。

ブログだと投稿日が付くので、記事が完成しないと投稿出来ませんが、ページだと、作っている途中でも公開出来ます。
ビザンティン(東ローマ)皇帝の栄枯盛衰に纏わる話の他に、宗教上の出来事やちょっとした挿話も書いているので、関心の有る方には興味深く読んでいただけるだろう、と思います。
下書きしていた時には、何故かどんどん書く事が増えて行って、何時書き終わるだろう、と思っていたのですが、取り敢えず、こうして一部でも形に出来、割付も案外好い感じで仕上がったので、ちょっと好い気分です。

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夜のアヤソフィア、イスタンブル模索の旅」に加える新しいページを作る為に、イスタンブルの歴史を調べているのですが、歴史の本に載っている歴史上の出来事というのは、戦争と殺人ばかりだなあ、とつくづく思います。
特に、歴史の本で人物像が生き生きと描かれているのは、殺人者、人殺しばかりですね。
たまに文化史上の出来事等も出て来ますが、一人一人の人物の生き様まで紹介してある事は少ないです。

こんな歴史叙述でも、歴史に興味の有る人は、その時代への想像や関心を膨らませて、歴史の面白さを堪能する事が出来るでしょう。
でも、そうじゃない人にとっては、何が悲しくて人殺しの事を一生懸命読んだり学んだりしなきゃならないのか、という事になるんじゃないか、と思います。

もっと様々な人生を送った様々な人達を知る事の出来る、自分の人生を省みる参考になるような歴史叙述は無いものか、と思います。

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何かの商品が売られなくなったからといって、どうこう思うタチではないのですが、こればかりは衝撃でした。
森永きなこキャラメル・・・。
必要以上に甘くなく、香ばしく、きなこの風味もしっかり生きていて、出色のキャラメルでした。
大人の味覚をも満足させる上品な味のキャラメルだった、と思います。
特に、ロッテガーナミルクチョコレートとの味のコラボレーションが素晴らしく、毎日食べていました。

最近、何処のスーパーでも品切れだなあ、と思っていました。
余りにも何時までも商品棚に並ばないので、森永製菓のウェブサイトを見てみたんです。
すると、そこには、青く、「※製造終了しました」の文字が・・・。
マジすか??

森永製菓のお客様相談室に問い合わせてみました。
一商品の事でそんな問い合わせをするのは、生まれて初めてじゃないか、と思います。
「何故製造終了する事になったのですか?」「再発売の見込みは有りますか?」と質問しました。
「製造終了って本当ですか?(嘘だと言ってよ、ジョー!)」とは質問しませんでした。
そういう問い合わせをするからには、公表してある事は一応受け止めるのが礼儀だと思いましたので。

間も無く回答が届きました。
きなこキャラメルは、元々期間限定の商品だったようです。
そして、その地位は「抹茶キャラメル」に取って代わられた、という非情な宣告・・・。
文面からは、きなこキャラメル復活!の可能性は窺えませんでした。
悲しききなこ!

森永のキャラメルでは、「ミルクキャラメル」と「黒糖キャラメル」が定番として販売されているのだそうです。
・・・黒糖?
黒糖が定番として認められているのなら、きなこも如何でしょうか?
どうか一つ、日本のきなこを!

きなこの原料である大豆の市場価格は、「農業情報研究所」の「主要穀物・大豆の国際価格の推移」のグラフを見る限り、今の所は安定しているようです。
社団法人 日本植物油協会」の「再び騰勢を強める油糧種子の国際価格(2009年6月5日)」で心配されていたような価格の高騰には至らなかったようです。
それでも、2006年までに比べればずっと高いようですが、しかし、きなこキャラメルが売られていた2009年中と今とでは、条件は変わらないようなので、是非、ご一考願いたいものです。
・・・そんなの余り関係無いのかな?

ロッテガーナミルクチョコレートが寂しがっています。

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過去の中を歩けば 夢の中を歩くようだ
起きた事は 夢だったのか
信じられないような事は やはり夢だったのだろうか
普通と違う事は 目には見えない心の絆は
何もかもが いつもとは違って見える

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プロフィール
HN:
粟谷 聡
年齢:
53
HP:
性別:
男性
誕生日:
1971/09/03
職業:
粟谷塾塾長
趣味:
他の誰でもない私自身の人生
自己紹介:
在野の思索家です。家塾粟谷塾を経営しながら、自分の納得出来る生き方、在り方を模索しています。
粟谷塾のブログ「粟谷塾の夜話」も随時更新中です。
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