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自分の納得出来る生き方、在り方を求めて思索し続け、省察と観察を続ける日々の雑感、随想を綴ります。
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この頃よく聴いている曲を紹介します。
「イスタンブルの秋İstanbul'da Sonbahar」という曲です。
作ったのはテオマンTeomanという歌手ですが、私が聴いているのはニル・カライブラヒムギルNil Karaibrahimgilのヴァージョンです。
ニル・カライブラヒムギルNil Karaibrahimgilについては、「模索の道」で3曲、動画や歌詞の拙訳と共に紹介しています。 「イスタンブルの秋İstanbul'da Sonbahar」は、寂しく切ない秋を感じさせる曲です。

YouTube - Nil Karaibrahimgil İstanbul'da Sonbahar..

テオマンTeomanのヴァージョンでも良いのが有ったので紹介します。

YouTube - İSTANBULDA SONBAHAR

ナザール・ボンジュウナザール・ボンジュウ 参考ページ ナザール・ボンジュウナザール・ボンジュウ

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模索の道」に「Gülizar(トルコTV映画「ギュリザール」)」というページを作りました。
このテレビ映画(単発の長時間テレビドラマ)は、2004年から2005年に掛けてトルコに住んでいた時に観て、印象に残っていた物です。
もう一度観たい、と思っていたのですが、漸くYouTubeで動画を見付ける事が出来ました。
そこで、粗筋を書いて紹介しよう、と思い、このブログの記事として書き始めましたが、思った以上に長くきちんと書けたので、その動画も載せて「模索の道」のページにする事にしました。

ギュリザールGülizar」は、所謂「名誉の殺人」を題材にしたテレビ映画です。
名誉の殺人」とは、結婚外の性交渉を行った(或いは行ったとされる)女性を、「家族の名誉を守る為」という理由で殺害する因襲(先祖代々の前近代的な風習)の事です。
日本では考えられない風習ですが、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、南米等、世界のかなり広い地域で実際に今も存続しているようです。

テレビ映画「ギュリザールGülizar」で「名誉の殺人」の被害者になるのは、トルコの僻地の貧しい村の美しい娘ギュリザールです。
そして、ギュリザールが「名誉の殺人」によって殺される迄の、周りの人々一人一人の対応が描かれます。
特に、私の目に際立っていたのは、ギュリザールの父親の卑怯さ、卑劣さでした。
詳しい事は「模索の道」のページの方に譲りますが、私は、このテレビ映画を観て、因襲が存続する理由と、それを脱して生きる事が出来る可能性について、改めて考える機会を得ました。

トルコのテレビ番組や映画は、日本では余り馴染みが有りませんが、興味が有る方は是非ご覧下さい。
ギュリザールGülizar」は、トルコ語が分からなくても、比較的分かり易い内容じゃないかな、と思います。
私の拙いトルコ語力で理解出来た限りですが、粗筋も書いたので、参考になれば、と思います。

ナザール・ボンジュウナザール・ボンジュウ 主な出演者 ナザール・ボンジュウナザール・ボンジュウ

ギュリザールGülizar: トゥーバ・ビュユキュストュンTuba Büyüküstün
ギュリザールを演じるトゥーバ・ビュユキュストュン トゥーバ・ビュユキュストュン

ピラサンPirasan(ギュリザールの兄): シェヴケット・チョルフŞevket Çoruh
シェヴケット・チョルフ

イスマイルİsmail(ギュリザールの恋人): イェトキン・ディキンジレルYetkin Dikinciler
イェトキン・ディキンジレル

ギュリザールの許婚: アフメット・サラチオウルAhmet Saraçoğlu
アフメット・サラチオウル

ギュリザールやピラサンの父親: ギョカン・メテGökhan Mete
ギョカン・メテ

ナザール・ボンジュウナザール・ボンジュウ 参考ページ ナザール・ボンジュウナザール・ボンジュウ

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昨夜、粟谷塾のサイトに「三角形の内角の和は180度?円の円周は直径の3.14倍?」と題するページを公開しましたが、書き進む内に、そのページの文章の基になった「知識には切りが無く人それぞれ」と題した記事に、訂正や補足をすべき箇所が有るのに気が付きました。

一つは、「曲面のごく小さい一部の事を平面と呼ぶ事にし」と書いた箇所です。
平面には、それだけでなく、「三角形の内角の和は180度?円の円周は直径の3.14倍?」で例として挙げたように、「地平線で空の彼方に伸びていくような面」や「真っ直ぐ空に向かって伸びていく壁のような面」も考えられる、と気が付きました。
但し、その面が重力の働きを受ける事を考えると、そういう面は現実に在るのかどうか、アニメーションの世界や宇宙科学の世界になるのではないか、という気もします。

もう一つは、「地面に広げた紙」の例です。
もしも地面の上に全くの平面を広げるとすると、厳密には、真ん中の一点だけが地面に接して、それ以外の部分は僅かに地面から離れて、真ん中から遠ざかるに連れて更に地面から離れる筈です。
しかし、地面とその平面との隙間は、肉眼では勿論、相当高い科学技術を以てしなければ確認出来ない程僅かな隙間です。
学校で習う算数や数学では、この、真の平面と、地面や地面に平行な面という、曲面である事が人間の感覚では分からない位限り無く平面に近い曲面を、混同させ、同じように考えさせているのだ、と思います。

参考ページ

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ウェブサイトを作っていると、私には、ウェブサイトに積極的に載せようと思う程愛着の有る知識が無い事に気付きます。
私は、知識という物に価値を余り置かない価値観を持っている事を、しみじみ感じます。

私が知識に価値を感じない理由は、二つ有ります。

一つは、知識は時間と共に古くなり、絶えず更新し続ける必要が有って、切りが無いからです。
時間という物は今この時にも未来に向かって流れている事を思えば、知識は得た時点で既に歴史史料だ、と言っても過言ではない、と思います。

私が明確に知識の無価値さを思った初めは、1981年11月1日、小学4年生の時に、カリブ海に浮かぶ島国アンティグア・バーブーダが独立した時でした。
当時私は、世界地理に興味を持っていて、世界の国々の名前と首都の名前を、漸く全て覚えて、達成感に浸っていました。
正にその時に、アンティグア・バーブーダが独立したのでした。
折角全部覚えた筈だったのに、またもう一つ覚えなければならなくなった訳です。
ベリーズが同じ1981年の9月21日に独立しているので、多分、それから11月1日迄の間に、世界の全ての国と首都の名前を覚えていたのだろう、と思います。
それでも、一つならば大した事は無かったかも知れませんが、当時の世界地図を見れば一目で分かる、アフリカ南西部の大きな白地、ナミビアを初め、当時は他にもまだ独立しておらず将来独立しそうな国が幾つも在りました。
この時の徒労感は、今でもよく覚えています。
覚えても覚えても切りが無い事を、はっきり悟りました。
地理の知識を覚える事に、本当に馬鹿馬鹿しさを感じました。
それで、すっかり地理に対する興味が無くなり、歴史に興味が移ったのでした。
後に、ソ連ユーゴスラビアチェコスロバキアが解体されて、次々と新しい国が出来た時には、世界地理への興味を無くしていて本当に良かった、と思った者です。

United_Nations_member_countries_world_map.PNG
※画像は、国際連合加盟年によって色分けされた世界地図です。独立年ではありませんが、一般に新しい国の独立が世界的に承認されると国際連合加盟が承認される事が多いので、参考迄に載せました。出所はWikipediaです。

因みに、私が数学に、歴史程の興味を持たなかったのにも理由が有ります。
それは、三角形の内角の和は180度、というのが単なる決め事に過ぎない、と気付いたからでした。
どういう事かと言うと、地面に三角形を描けば、内角の和は180度であるように見えます。
しかし、その三角形をもっともっと拡げて大きくして、下の画像のように地球規模に拡げて、一つの頂点が北極点に達し、その点から出る二辺の間の角を、何度でも構いませんが例えば50度になるようにし、その二辺がそれぞれ赤道に達し、底辺が赤道をなぞるようにして三角形を描くと、内角の和は180度にはなりません。
頂角が50度、底角は経線と赤道によって出来る角なのでそれぞれ90度になり、内角の和は50度+90度+90度=230度となります。
地球の表面は曲面なので、一見三辺は曲がっていて、この図形は三角形ではないようにも思えますが、地球表面のごく小さい一部が私達の目の前の地面、足の下の地面なのです。
つまり、曲面のごく小さい一部の事を平面と呼ぶ事にし、平面の上では地球の曲面に沿った曲線を直線と呼ぶ事にし、平面の上では三角形の内角の和は180度だ、と決めただけの事なのです。
逆に、地面は曲面なので地面の上に描いた三角形は厳密には三角形ではなく、紙の上に描いた三角形こそ本当の三角形だ、と考えるとしても、地面に広げた紙の端が浮いているとすれば、普通は、地面ではなく紙が曲がっている、と見做されます。
このように、数学とは、決め事を前提として、その前提の上で考えたらどうなるか、を考える学問です。
私には、そのように他人が決めた前提の上で物を考える事に、大した意義を見出す事が出来ませんでした。
精々頭の体操程度の事で、それ以上の意義を見出す事は出来ませんでした。

地球表面に大きく描いた三角形(内角の和230度)と小さく描いた三角形(内角の和180度)
※画像は、地球表面に大きく描いた三角形(内角の和230度)と小さく描いた三角形(内角の和180度)です。左の三角形は、北極点を頂点とし、赤道を底辺とする二等辺三角形で、内角の和が50度+90度+90度=230度になっています。右の三角形は、秋田県男鹿半島の衛星写真上に描いた三角形で、この位狭い範囲に描くと、三角形の内角の和はほぼ180度になります。出所はWikipediaです。

話を戻して、私が知識に価値を感じない理由のもう一つは、知識は一つの見方を表しているに過ぎないからです。
同じ現象を見ても、見る人が違えば見方も違い、見方が違えば表現の仕方も違ってきます。

そして、この10年、「神が教えてくれなければ何が正しいかは分からない。」という考えを明確に持つようになってから、この二つには益々拍車が掛かりました。
未来の事は分からないのであり、また、真実が分からないから新説の出る余地も有るのであり、また、真実が分からないから人それぞれの見方が有る(人それぞれの見方しか無い)訳です。
ですから、知識に対する私の価値観は、一層深まって、益々下がる事になりました。

歴史の知識についても同じです。
私が地理への興味を捨てて歴史に興味を持つようになったのは、済んだ事は変わらないだろう、と思ったからだったかも知れません。
しかし、過去の事が全て今の私達に分かる訳ではなく、歴史の知識とは、見付かった史料を基にして立てられた仮説に過ぎないのでした。
ですから、やはり、新しい史料が見付かる可能性は絶えず有り、実際新しい史料はよく見付かるので、歴史の知識もまた絶えず更新の必要が有って切りが無く、また、その史料に対する見方も人それぞれなので、歴史の知識は一つの歴史観を表しているに過ぎません。

聖書の『伝道の書』(または『コヘレトの言葉』)は興味深い事を述べています。
知識のよいところは、知恵者がそれで救われるところにある。-7:12(バルバロ訳)
知識の価値は、知恵を働かせる為の道具になる所に有る、と言い換えられる、と思います。
これには同感です。



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前回の記事に書いた事もそうですが、世間で批判的に言われている言動が自分にとってはその批判通りではない、という事は結構よく有る事です。
自分を省みずに生きてきた訳ではないので、長い間自分が違和感を感じなかった事には、自分にとって然るべき理由が有るようです。
ですから、そういう事については、世間の言説に惑わされず、寧ろ自分に自信を持って自省、内省しながら生きていきたい者です。


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中山美穂さんの『なぜなら やさしいまちが あったから』という本を手にする機会が有り、ぱらぱらページを捲っていると、197ページにこんな記述が有りました。
ある日、カフェでグラスの水をこぼし、洋服が水浸しになりました。幸いグラスは割れませんでしたが、「ごめんなさい」と言った私に対して、お店の人は「何がごめんなさいなの?あなたのため?」と言っていました。通っている刺繍学校で、刺し方を間違ってしまい、「ごめんなさい、間違えました!」と言った時、先生は「なぜ謝るの?あなたのものでしょう?」と返しました。・・・
よく考えてみれば当たり前のことで、意味もなく謝ったり笑ったりすることは、フランス人にとって信用できない人物になってしまうのです。・・・ということは、日本語の使い方もそもそも間違っているのではないかと思い、それはつまり、現代の日本語がものすごく間違っているのではないかと考えを巡らせてしまうほどの途方の暮れようなのです。
私もよく謝る方だと思いますし、そういう人は多いと思います。
何十年も前から、日本人が意味も無く謝る事が世界の人から怪訝に見られている、という話はあちらこちらで喧伝されていて、私も、そうなのだろうか、と自分自身を省みてきたものです。
しかし、そうやって省みてきた結果、今は、意味も無く謝っている、とは思っていないし、これで良い、と思っています。

私は、こういう場合に謝るのは、相手の働きや心遣いを台無しにした事に対して謝っているのだ、と思っています。
折角注いでくれた水を零してしまった事に対する謝り。
注いでくれた労力を台無しにしてしまった事に対する謝り。
折角教えてくれたのに習得出来なかった事に対する謝り。
教えてくれた労力を台無しにしてしまった事に対する謝り。
そういう事だ、と思います。

後者については、私は、塾師としての立場や経験から、出来ないから教えている、教わっているのに、出来ない事を悪い事のように見做している人が多い、と感じています。
出来ないのを承知の上で、出来ないのを出来るようにさせるのがこちらの務めだ、と思っているので、その前提である筈の出来ない事を謝られると、困惑します。
しかし、前者については、「覆水盆に返らず。」の諺通り、取り返しの付かない事であって、水を注いでくれた相手の働きを無駄にした事に対して謝る事に、私は、何の違和感も感じません。
特に、「見苦しい」という日本語が示すように、日本人には、自分の所作の一つ一つをも、相手が見て心地好い物にしようとする文化が、昔から有ったようです。
そういう文化の目で見れば、単に「水を注ぐ」という小さな働きの中にも、見て心地好い物にしようとする相手の心遣いが有ったかも知れない、と感じます。
そうだとすれば、それ程の「有り難い」働きを台無しにしてしまった事に対して謝るのは、私としては、とても自然な、納得の行く事です。
但し、そういう意味で謝っている、と言えば、外国の人には物凄く驚嘆されるでしょうけど。

中山美穂さんの文章には独特のリズム感が有って読みやすいですし、内容にも共感したり考えさせられたり省みさせられたりする所が多いようなので、出来れば時間を見付けてきちんと読んでみたいです。


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Raymondfranz.gif Wikipedia(英語)の記事レイモンド・フランズRaymond Franz氏が今年の6月2日に脳梗塞で亡くなった事を知りました。
レイモンド・フランズとは、かつてエホバの証人の最高中枢機関、統治体の一員でありながら破門(排斥)された経歴を持つ人物です。

※画像は、1980年に撮影されたレイモンド・フランズ氏の写真だそうです。出所はWikipediaです。

私は、「模索の道」の「レイモンド・フランズ『良心の危機』の読書感想」の「2005年11月25日(金)」の項にも書いたように、レイモンド・フランズ氏が、自分をどういう訳で「油そそがれた者」だと認識したのか、そう自覚した時何が起きたのか、を告白する事を期待していました。
「油そそがれた者」とは、エホバの証人の教えでは、一般のエホバの証人が地上で永遠に生きる希望を持っているのに対して、天で生きるように招かれているとされる人々を指しています。
神の聖霊によるというその招きを、彼らは、彼らだけに分かる方法で受けている、という事になっています。
統治体の成員は、(最近の事は知りませんが)全て「油そそがれた者」です。
統治体の一員だったレイモンド・フランズ氏もまた「油そそがれた者」でした。
現役のエホバの証人の中の「油そそがれた者」からは、この問いに対して、事実そのままではなく、結論ありきの脚色された答えしか聞く事が出来ないだろう、と思います。
それで、最早エホバの証人ではないレイモンド・フランズ氏が有りの儘を話してくれれば、と期待した訳です。

レイモンド・フランズ氏の著書『良心の危機―「エホバの証人」組織中枢での葛藤』には、別の「油そそがれた者」エドワード・ダンラップ氏のとても腑に落ちない経験が一つ書いてあるだけで、著者自身の経験については書いてありませんでした。
他の著書の記述や口頭の発言でその事に言及していれば、話題になっていただろう、と思いますが、私の知る限り、そういう事も有りませんでした。
という事は、レイモンド・フランズ氏は、この事については何も明らかにしないまま、亡くなってしまったのかも知れません。
そうだとすれば、とても残念です。

参考ページ

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2004年から2005年に掛けてトルコに居た頃、トルコ語で日常使う言葉で、Jで始まる単語は、「Japon」(日本人、日本の)と「Japonya」(日本)と「Jandarma」(ジャンダルマ、憲兵)だけでした。
つまり、日本や日本人と関わりの無い人にとって、Jの文字を読んだり書いたりするのは、「Jandarma」を読んだり書いたりする時だけのようでした。
トルコ語では「ジ」の発音はCで表すので、実際、「日本」と書くのに「Caponya」と書いた人も居ました。
そして、これらの単語は、「Japon」と「Japonya」は言うまでも無く、「Jandarma」もフランス語起源のようで、全て外来語(借用語)です。
外来語(借用語)ではない元々のトルコ語(固有語)には、Jで始まる単語は無いようでした。

ところが、現代トルコ語には、Jだけでなく、H、L、M、N、R、Zで始まる固有語も殆ど無いらしい事を示すページを、昨日偶然見付けました。 匈奴は何語をしゃべっていたか?」によると、H、L、M、N、R、Zの中ではNで始まる固有語が多いようですが、それでも「トルコ語固有の単語でnで始まるものは、『何』のneとその派生語しかありません。」との事です。
また、先に書いたCで始まる単語についても、「ほとんどが外来語起源である」と書かれています。
更には、Dで始まる固有語が有るかどうかについても、議論の有る事が指摘されています。
尚、現代トルコ語では、通常、Q、q、W、w、X、xの文字は使われていません。

現代トルコ語の内、C、H、J、L、M、N、R、Z、(もしかするとDも)で始まる単語はほぼ全て固有語ではなく、母音またはB、Ç、F、G、K、P、S、Ş、T、V、Yで始まる単語の中にも外来語(借用語)が有る、と考えると、固有語が随分少ない気がします。
固有語ではないトルコ語が思った以上に多いらしい事を知って、驚きました。

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サイトとブログの再編を進めている所ですが、「模索の道」に「ルカ14:28 費用を計算して無理そうだったらイエスの弟子になるのを諦めるべきなのか?」というページを新しく作りながら見付けた「ジーザスJesus」という映画には、とても考えさせられました。
ルカによる福音書に基づいて作られた映画だそうで、イエス・キリストの地上での足跡を聖書の朗読と共に辿っています。

私が特に考えさせられたのは、刑死の時が近付いた頃のイエス・キリストの、ユダ・イスカリオテとシモン・ペテロに対する姿勢です。
イエス・キリストには、ユダ・イスカリオテが自分を裏切る事や、シモン・ペテロが自分を三度否認する事が、予め分かっていました。
イエス・キリストは、何とかして彼らの心に訴え掛けたかったでしょうが、敢えて神の定めを甘受して、何もしなかった訳です。
そこには、神に対する絶大な信頼が有る、と思いました。
壮絶な戦慄を感じました。

聖書は確かに神の言葉であるとか、イエス・キリストは神の子であるとか、神は実在するとかを、私は今の所客観的に断言する事は出来ません。
しかし、聖書には、心にぐっと迫って来る、非常に納得を感じさせてくれる、魅力的な人物や話が沢山出て来ます。
私は今迄特に、聖書の神(エホバの証人は「エホバ」と呼び、他のクリスチャンは「父なる神」と呼びます。)に魅力を感じ、イエス・キリストにはそれ程魅力を感じませんでしたが、今回は、イエス・キリストの凄さに圧倒されました。
その内、「模索の道」の聖書の欄で、この映画を見て思った事を、もっときちんと書ければ、と思います。

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粟谷塾を的確に説明する言葉を探す中で、「ポテンシャル」という言葉について検索する機会が有りました。
その経緯等については、「粟谷塾の夜話」の「ポテンシャル、位置エネルギー」と題した記事を見てもらいたいのですが、興味深かったのは、「ポテンシャル」という言葉には、「可能性、潜在能力」という意味の他に、「位置エネルギー」という意味も有る、という事です。

位置エネルギーとは、物理(力学)の用語で、高い位置に在る物体が持つエネルギーを指し、学校では中学校の理科1分野で取り上げられています。
そして、学校でこれを教わる時、同時に「力学的エネルギー保存の法則」というのも教わります。
これは、或る運動において物体の位置エネルギーと運動エネルギーの合計は一定だ、という法則です。

今回、この「力学的エネルギー保存の法則」について、新しいイメージで考える事が出来ました。
と言うのは、位置エネルギーを「ポテンシャル」と呼ぶのは、高い位置に在る物体には運動エネルギーを発揮する可能性が有る、または、高い位置に在る物体には運動エネルギーが潜在している(蓄えられている)、と見做されているからだ、と分かったからです。
つまり、「力学的エネルギー保存の法則」が言っているのは、物体が運動エネルギーを発揮するポテンシャル(可能性、潜在能力)を「位置エネルギー」と名付けて、まだ発揮されていない運動エネルギーも、発揮された運動エネルギーと同等と見做す、という事なのです。

これは、人間の能力で言えば、既に発揮している能力だけではなく、可能性、潜在能力も含めて、その人の能力を判断する、という事だ、と思います。
結果だけで判断しない、という事であり、物理(力学)の癖に、案外人間的で温かい考え方だ、と言えるかも知れませんね。

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プロフィール
HN:
粟谷 聡
年齢:
52
HP:
性別:
男性
誕生日:
1971/09/03
職業:
粟谷塾塾長
趣味:
他の誰でもない私自身の人生
自己紹介:
在野の思索家です。家塾粟谷塾を経営しながら、自分の納得出来る生き方、在り方を模索しています。
粟谷塾のブログ「粟谷塾の夜話」も随時更新中です。
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